西南戦争史跡を巡る  薩摩猫之介の散歩

西南戦争の史跡を地図付で紹介しています。史跡巡りの参考にしてもらえれば嬉しいです。追加の史跡なども地域ごとに書き足しています。他に明中会(西郷隆盛研究会)の活動・薩摩猫之介のつぶやきもあります。

無断転載の件

前回のブログでの無断転載ですが、「薩摩猫之介の散歩」は消されました。先方からの返信は一切なく、商品名と会社概要・価格が変更されていました。しかし、メールアドレスは同じです。不自然な点は会社住所の三重県四日市市では市外局番が「059」ですが、「048」と埼玉県熊谷市のものが使用されています。また、社名を調べても一切出てきません。

 

色々と調べてみると、STORE専門ショップというサイトは詐欺の可能性があるようです。

とりあえず安心しました。

 

🐸さんよりお見舞いのメールをいただき、とても感謝しております。

 

ウェブ上では「薩摩猫之介の散歩」のままですが、サイトを開いたら内容が変更されています。

f:id:satsumanekonosuke:20260827214300j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260827213940j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260827213950j:image

前回の会社概要

f:id:satsumanekonosuke:20260827214023j:image

 

このようなサイトには気をつけてください。

 

西南戦争史跡75 鹿児島県霧島市牧園町 2

西南戦争史跡69ではチシャガ迫と七又の塹壕(胸壁)を紹介していますが、今回はそれ以外に残る塹壕を探索しました。

探索は場所を絞って牧園高校付近、引坂迫、飯富神社付近、宿窪田に行きます。

f:id:satsumanekonosuke:20260403123017j:image

【霧島市牧園町堡塁位置図 手嶋正次 2018『堡塁群が語る西南戦争~霧島の山々に眠る「十年の戦の跡」~』から引用】

『銃砲史研究』第400号で高橋信武さんが寄稿されている「西南戦争跡研究の現状」では、上記の堡塁位置図にある堡塁(総数約300基)を西南戦争遺構と断定するには躊躇されています。(有難いことに『銃砲史研究』を高橋さんより頂きました)

 

堡塁位置図による牧園高校付近の塹壕(赤丸が写真の場所)

f:id:satsumanekonosuke:20260403123205j:image

牧園高校付近では高校の校庭フェンス近くに塹壕が残っているとのことでした。牧園高校の西側の山に入り、斜面の中央・上段・下段を探索します。

しばらく探索しても山肌には塹壕らしきものは見当たりません。ただ、1つだけ塹壕のような盛土を見つけました。しかし、これが塹壕なのかは判断ができない状況です。

f:id:satsumanekonosuke:20260402152459j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260402152453j:image

盛土は西側の本道に向いていますので、もしかして塹壕の可能性もあります。

 

次に向かったのは、牧園町万膳と牧園町宿窪田の間道にある引坂迫です。間道は西南戦争時にも存在しており、官軍の左翼隊を警戒して構築されたものと考えられます。

f:id:satsumanekonosuke:20260402161240j:image

 

堡塁位置図による引坂迫の塹壕

f:id:satsumanekonosuke:20260403123349j:image

 

引坂迫の塹壕探索

f:id:satsumanekonosuke:20260402160849j:image

間道沿いの小高い尾根に3つの塹壕を確認することができました。半円形の盛土は目視でわかり、ここの塹壕は良い状態で残っています。

 

f:id:satsumanekonosuke:20260402160907j:image

 

塹壕①

f:id:satsumanekonosuke:20260402154130j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260402154149j:image

塹壕②
f:id:satsumanekonosuke:20260402154201j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260402154137j:image

塹壕③

f:id:satsumanekonosuke:20260402160758j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260402160753j:image

盛土は間道側を向いており、間道を進んでくる官軍を高所から迎え撃つように構築されたことがわかります。

 

続いて笠取峠の横にある山を探索しました。

f:id:satsumanekonosuke:20260403125123j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260403125157j:image

山中を探索しましたが、これだけ印が密集していながらも遺構は1つも確認できませんでした。山の麓にある民家の方に遺構の存在を尋ねましたが、この山に遺構があると聞いたことがないとのことです。遺構なら山むこうにあると牧園史談会の会長から聞いていると言われました。

これは高橋さんの言うとおり、堡塁位置図にある印の全てを遺構と考えるのは難しいのではと思われます。

 

笠取峠を後にして飯富神社へ向かいます。

飯富神社後方に塹壕があるようなので、神社に参拝して後方の山に入りました。後方の山は緩やかな尾根で比較的登りやすかったです。

f:id:satsumanekonosuke:20260403130704j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260403130433j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260403130646j:image

この場所でも塹壕と呼べる遺構は確認できませんでした。ただ、台場のような円形の窪地を2つ見つけましたが、確証を得ることができません。

f:id:satsumanekonosuke:20260403131214j:image

窪地①

f:id:satsumanekonosuke:20260403131300j:image

窪地②

f:id:satsumanekonosuke:20260403131352j:image

これらの窪地が台場だとすれば疑問が生じます。それは台場の位置が宿窪田を守備する薩軍に向けられているような感じがありました。しかし、明治10年7月にこの地では戦闘が行われていませんので、官軍が台場を構築する必要はなかったと思われます。

f:id:satsumanekonosuke:20260403132921j:image

全てを考察すると、この窪地が台場である可能性はないものと考えられます。

 

立て続けに空振りでしたが、最後の宿窪田に残る塹壕に行きました。

f:id:satsumanekonosuke:20260403133402j:image

ここはGoogleマップでも載っている塹壕ですので、探索というより確認となります。

f:id:satsumanekonosuke:20260403134314j:image

舗装道路から林道に入りますが、路肩が脆く崖になっています。軽自動車以外は林道入口に駐車して徒歩で行くとこをおすすめします。

f:id:satsumanekonosuke:20260403134921j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260403134917j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260403134912j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260403134931j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260403134926j:image

入口には案内板が建てられており、訪巡するにはとてもわかりやすい場所でした。

高さは低いものの、半月状の土塁が残っています。

土塁の向きは南西側で、犬飼・安楽・塩浸方面からの進軍に備えた塹壕だと思われます。

f:id:satsumanekonosuke:20260403135954j:image

 

この塹壕の近くには坂本龍馬が霧島に訪れた際に散歩したという道があります。

現在はきれいな林道ですが、当時は人が通る幅しかなかったのではないでしょうか。

f:id:satsumanekonosuke:20260403140325j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260403140337j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260403140330j:image

 

これで今回の牧園探索は終了となります。

高橋さんによると、各県の西南戦争台場類跡確認数は現在の時点で大分県929基、宮崎県521基、熊本県252基、鹿児島県38+α基とあります。

鹿児島県の確認数が少ないのは、北薩地域での調査がされていないことが理由ではないでしょうか。

紫尾山や宮之城方面でも激しい戦闘がありましたので、遺構が残っている可能性もあります。

伊佐市大口では高熊山の塹壕が有名ですが、隣りの坊主石山でも個人的に塹壕を確認しています。(西南戦争史跡66に記載)

また、牧園においては堡塁位置図で約300基ほどとありますが、今回の探索で堡塁位置図の全てを遺構と断定できないと感じ、きちんと精査して正確な数を出す必要があるのではと思いました。

鹿児島県の西南戦争遺構が開発や風化により消滅してしまう前に確認されることを切に願っています。

西南戦争史跡74 鹿児島市唐湊

鹿児島市の唐湊(とそ)も西南戦争での激戦地でした。現在の唐湊は宅地開発と広大な墓地(唐湊墓地・田上霊園)により、西南戦争時の様子とは大きく異なります。

現在の唐湊の山

f:id:satsumanekonosuke:20260329111605j:image

古地図から復元した唐湊の山

f:id:satsumanekonosuke:20260329111651j:image

 

今回は高橋信武さんのブログ『西南戦争之記録』「甲突川右岸の戦い 6月24日前後」で書かれてある唐湊での戦闘があった場所を特定したいと思います。

 

「甲突川右岸の戦い 6月24日前後」にある戦闘場所の名称

 

征西戦記稿 

【二本松】

 

戦闘記録

別働第一旅団第一大隊 上野大尉

【摩利支天山(俗ニ二本松ト云フ)】

別働第一旅団第二大隊 吉村少佐

【武村背後天神山】

別働第一近衛砲兵長 藤井大尉

【摩利支天塚ノ二本松】

別働第一旅団 茨木中佐

【田上村山上二本松】

別働第三旅団 迫田少佐

【二本松】

別働第三旅団 八木中尉

【唐湊ノ二本松】

 

薩軍側の史料 

丁丑の夢

【天神ヶ岡】

 

その他官軍の記録

西南征討関係書類

【摩利支天岡】

 

上記にある場所の名称が統一されていません。その理由としては全てが俗称だったと考えられます。それなら同じ別働第一旅団でも隊が違えば名称が変わるのも納得できます。

 

【摩利支天山】【摩利支天塚】【摩利支天岡】は同一だと考えられるので、唐湊に摩利支天が残っているか調べました。

鹿児島県教育委員会の報告書に唐湊城跡(郡元営)があり、そこに摩利支天があることが書かれていました。武と田上の境に城ヶ平橋という名前の橋があるのは唐湊城の名残りのようです。

f:id:satsumanekonosuke:20260330120128j:image

唐湊城跡(郡元営)は西南戦争史跡72・73で投稿した野元営と原羅営と同時期に畠山直顯が築いた臨時城砦です。そうなれば、野元営や原羅営と同じく薩軍が遺構を利用してもおかしくありません。

逆に薩軍は郷土に残るこれらの城砦の遺構を知っており、そこに陣を置いて利用したと考えるのが自然ではないでしょうか。

 

 

まずは摩利支天の探索をしました。

唐湊の摩利支天があるのは唐湊墓地の北側になります。

唐湊墓地の摩利支天入口までのルート

(鹿児島中央駅西口・武岡トンネル方面から)

f:id:satsumanekonosuke:20260329121052j:image

車は唐湊墓地の路肩に駐車できます。

(自分の家の墓も唐湊墓地にあり、いつも路肩に駐車していますので問題ありません)

f:id:satsumanekonosuke:20260329121353j:image

 

摩利支天探索の全貌

f:id:satsumanekonosuke:20260329121536j:image

 

摩利支天への入口

f:id:satsumanekonosuke:20260329121628j:image

 

コンクリートの道を上るとすぐに山道が出てきます。コンクリートの道は左に曲がりますが、直進して山道に入ります。

f:id:satsumanekonosuke:20260329121842j:image

 

道は所々石が敷かれており、整備もされていますので登りやすいです。

f:id:satsumanekonosuke:20260329122026j:image

 

距離は約300mほどで、時間にして約6分ぐらいの短時間で摩利支天まで着きます。探索というより史跡巡りのような感覚でした。

f:id:satsumanekonosuke:20260329122245j:image

 

摩利支天の配置図

f:id:satsumanekonosuke:20260329122330j:image

 

頂上は平らな削平地です。この削平地は唐湊城(郡元営)の曲輪だった可能性も考えられます。入口には土塁のような盛土があり、手前に石灯篭が置かれています。

f:id:satsumanekonosuke:20260329122447j:image

 

土塁のような盛土

唐湊城跡(郡元営)の遺構か定かではありませんが、入口にある盛土上の樹木が大きいことから、かなり古い時期のものだと考えられます。

f:id:satsumanekonosuke:20260329122644j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260329122638j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260329122632j:image

 

盛土の上に摩利支天の碑が置かれています。

f:id:satsumanekonosuke:20260329123002j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260329122958j:image

 

摩利支天の御神体

f:id:satsumanekonosuke:20260329124031j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260329124025j:image

 

摩利支天には大変失礼なことですが、御神体の中も撮影しました。しかし、何もなかったです。

f:id:satsumanekonosuke:20260329124209j:image

 

御神体左右の石柱

風化が激しく文字の解読はできませんでした。

f:id:satsumanekonosuke:20260329124415j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260329124405j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260329124410j:image

 

御神体前にあった舟形の置物

f:id:satsumanekonosuke:20260329124507j:image

 

御神体の裏

f:id:satsumanekonosuke:20260329124536j:image

 

御神体付近の全貌

f:id:satsumanekonosuke:20260329124622j:image

 

摩利支天がある削平地から市街地を望みましたが樹木に遮られていました。樹木がなければ見晴らしが良いと思われます。

f:id:satsumanekonosuke:20260329124804j:image

 

摩利支天の確認も終え、下りながら探索していきます。

摩利支天の下にある削平地①

唐湊城(郡元営)の曲輪だったのでしょうか。

f:id:satsumanekonosuke:20260329125012j:image

 

道幅の広い側道がありました。

f:id:satsumanekonosuke:20260329125321j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260329125327j:image

この側道は近年に造られたような感じがします。先は行き止まりになっており、宅地開発で道が遮断されたのかもしれません。

f:id:satsumanekonosuke:20260329125529j:image

 

下って行くと左側に削平地②と削平地③が段違いでありました。

上の段にある削平地②

f:id:satsumanekonosuke:20260329125714j:image

下の段にある削平地③

f:id:satsumanekonosuke:20260329125743j:image

この段違いの削平地に薩軍が居たとすれば、広くない通路を登ってくる官軍兵はかなり不利な状況だったに違いありません。

 

削平地の下(対面側)には広い平場①があります。この平場も通路より一段高くなっており、兵を配置するには格好の場所です。

f:id:satsumanekonosuke:20260329130345j:image

 

平場①の下(山の入口付近)にも平場②がありました。

f:id:satsumanekonosuke:20260329130525j:image

 

これにより唐湊の摩利支天探索は終了しました。残念ながら西南戦争時の遺構は確認できませんでしたが、摩利支天の確認ができたことで、ここが【摩利支天山】【摩利支天塚】【摩利支天岡】と言われた場所だと断定することができました。

 

唐湊の二本松を検証

次は二本松が何処にあったのか調べてみます。

『鹿児島の史蹟』(著者・鹿児島市教育委員会 昭和12年)と『武郷土誌』(著者・武小学校PTA郷土誌観光委員会 昭和49年)に「二本松高地というのは、唐湊温泉場の西方の高地上に二本の松があったから名づけた俗称であった」とありました。

まず、唐湊温泉場が何処にあったのか調べる必要があります。現在の「新とそ温泉」ではないことは確かです。では、唐湊温泉場は?という疑問ですが、古地図に温泉のマークを確認することができました。

f:id:satsumanekonosuke:20260329132656j:image

このマークが唐湊温泉場なのか確認する必要があります。『武郷土誌』によると、明治21年(1891)木脇敬四郎が新川の土手を掘ったところ、きれいな水が湧き出てきました。木脇はここに市内最初の冷鉱泉を発見、後に唐湊温泉場を開ました。

木脇が唐湊温泉を掘った井戸を「まがね井」と命名し、その「まがね井」と刻まれた記念碑が「唐湊橋架橋記念碑」の横にあったとのことです。

記念碑を探しに唐湊橋へ行きましたが、何処にも見当たりません。古地図を再度確認すると現在の唐湊橋が当時なかったことが判明、1つ上流にある湊橋が昔の唐湊橋だったことがわかりました。

 

上記の古地図と比べると下流に新しく橋が架られていることがわかります。

f:id:satsumanekonosuke:20260329135518j:image

現在の航空写真

f:id:satsumanekonosuke:20260329135600j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260329135611j:image

湊橋が昔の唐湊橋だったことがわかり、湊橋の周辺を探索しました。しかし、「まがね井」の記念碑は見つかりません。道路拡張と護岸工事で撤去された可能性があります。さらに『武郷土誌』を読み解くと、「唐湊橋架橋記念碑」の前に「観音様」が安坐されているとありました。

湊橋の近くに観音様がありましたので、この辺りに唐湊温泉場があったとの確証を得ることができました。

f:id:satsumanekonosuke:20260329141512j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260329140735j:image

 

ここからが本題です。

唐湊温泉場の西方の高地上に二本の松があったとあります。では、二本の松は何処にあったのでしょうか。

古地図で唐湊温泉場の西方を見ていたら、見慣れない地図記号がありました。

f:id:satsumanekonosuke:20260329141833j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260329141822j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260329141827j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260329153924j:image

昔の地図記号で現在は使用されていないと思われ、『地形図之読方』(著者・後藤好輔 大正3年)で調べると記号の説明がありました。

1902年の古地図記号

f:id:satsumanekonosuke:20260329142413j:image

説明を現代文にすると「独立樹とは、大きな一本の木、あるいは森林になるほどではない樹木の集まりであって、目印となるものを指す。しかし、場所によっては木が小さくても、良い目標となるものはこれによって示される」です。

 

戦前地形圖と1932年の古地図記号

f:id:satsumanekonosuke:20260329142927j:image

現代文「その場所がどのような所にあるのかを知るには、居住地や森林などから離れていて、よく見渡すことができる、最も目印として適した一本の木、あるいは二、三本の木の集まりを示している」とあります。

これに当てはまるのは二本の松ではないでしょうか。確証を得るため、二本松の名称がある馬場(通り)、鹿児島市街地の二本松馬場を調べました。

f:id:satsumanekonosuke:20260329144938j:image

二本松馬場の由来には「昔はこの通りの真正面に武大明神ヶ岡(武岡)が見え、その岡に2本の松の大木が生えており、大変すばらしい景色であったことから、これにちなんで二本松馬場の名がついたと言われています」とあります。

しかし、武岡大明神ヶ岡(武岡)には鍼葉獨立樹の記号も 抽出樹の記号もありません。では、二本松馬場から古地図にある記号の木が見えたのか調べました。

f:id:satsumanekonosuke:20260329144916j:image

二本松馬場から古地図の記号がある木が見えていました。

これら全てを考慮すると、この記号の場所に二本松があったと断定できます。

f:id:satsumanekonosuke:20260329145248j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260329145243j:image

二本松があった場所は墓地の造成により削られて消滅しています。

f:id:satsumanekonosuke:20260329153949j:image

二本松跡

f:id:satsumanekonosuke:20260329152032j:image

二本松跡から摩利支天を望むと、とても近い位置関係だとわかります。【摩利支天山(俗ニ二本松ト云フ)】と混同されるののもわかります。

f:id:satsumanekonosuke:20260329152222j:image

鹿児島市街地方面を望むと、とても見晴らしが良いです。

f:id:satsumanekonosuke:20260329152323j:image

 

西南戦争に関する古写真をAIでカラー化したら、隅に二本松が写っていました。

城山の台場より西田方面を撮影したものです。

f:id:satsumanekonosuke:20260505173746j:image

 

続いて【武村背後天神山】【天神ヶ岡】について調べました。

古地図にある天神瀬戸の地名

f:id:satsumanekonosuke:20260329151036j:image

現在は天神瀬戸という地名はありませんが、田上天神という地名が残っています。

武村背後と考えると、城下を正面にすれば武村の後が田上となり、天神山となれば田上天神付近だと思われます。

田上天神と呼ばれる場所

f:id:satsumanekonosuke:20260329150553j:image

店名にも公園にも天神とあります。

f:id:satsumanekonosuke:20260329150644j:image

『武郷土誌』によると「建久図田帳」に「安楽寺領三十七町五反、安楽寺下司僧安静」と書いてある。安楽寺領の薩摩における寺領は阿多五町、高城五十三町、薩摩郡三十六町八反、入来二反、鹿児島郡三十七町五反で、合計百二十二町五反であった。

鹿児島三十七町五反の所領の範囲は、はっきり分らないが、豪族割拠の形勢からみて田上付近ではないかと思われる。田上には「天神が瀬戸」「天神橋」という地名が残っている。安楽寺が天満宮の別当等であるので、この辺に天神社が造営されていたかもしれない。

と書かれています。

そうなると、【武村背後天神山】【天神ヶ岡】とは田上天神付近の山だと考えられます。

f:id:satsumanekonosuke:20260329152516j:image

地図でもわかる通り、田上天神の後には二本松がありました。このことから【武村背後天神山】【天神ヶ岡】は二本松のことであり、茨木中佐の【田上山上二本松】も同様の解釈で捉えることができます。

 

これで唐湊における戦闘場所が全て判明できたと思います。

明治10年6月24日の進軍経路

f:id:satsumanekonosuke:20260329153225j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260329153232j:image

 

最後に武岡の茶磨塁(茶臼城)に行きました。茶磨塁も野元営・原羅営・唐湊城(郡元営)と同時期に築かれています。宅地造成のため伐採すると、南北に2つの曲輪、空堀が数ヶ所出てきたようです。現在は宅地開発で遺構は全て消滅し、公園に茶磨塁という名前が残るのみとなっています。

f:id:satsumanekonosuke:20260329161609j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260329161615j:image

 

 

 

 

西南戦争史跡73 鹿児島県鹿児島市武岡・原良探索②

先日の武岡探索に続いて今回は原良を探索します。

西南戦争史跡72で原羅営を記しましたが、旧城西高校グランドで掘削された場所が当時どのような地形だったのか復元しました。

現在の地形図

f:id:satsumanekonosuke:20260319190700j:image

 

古地図を元に復元した地形図

f:id:satsumanekonosuke:20260319190715j:image

 

旧城西高校グランドの場所は緩やかな斜面だったのが判明しました。これまで掘削により遺構が消滅していると思っていましたが、復元した地形図では台場など構築できるような地形ではなかったようです。

 

3月8日 8:30

集合場所の西田小学校西側の校門に向かいます。

日曜日の朝なので校門は閉められており、もぐら先輩は自彊学舎の前にいました。

 

自彊学舎とは藩政時代の郷中教育を継承して、西南戦争後に西田郷中と常盤郷中が統合され作られた学舎です。西田・常盤郷中から輩出され西南戦争に従軍した人は次の通りです。

中島健彦(振武隊指揮長)

山野田一輔(奇兵一番中隊長)

迫田鐵五郎(第一旅団・歩兵第一聯隊第三大隊長)

永山武四郎(別働第二旅団・屯田兵第一大隊)

f:id:satsumanekonosuke:20260320164532j:image

永山武四郎の誕生地だけ案内板があります。(鹿児島市薬師2丁目)

 

しばらくすると自彊学舎前に参加者が集まりました。堀田さん、宮崎さん、南さんは都合が合わずに不参加となり、新たに堤さんが参加します。

 

原良探索の経路

f:id:satsumanekonosuke:20260320154632j:image

 

自彊学舎から原良の尾畔山へ向かう途中で石垣に埋め込まれた古い石敢当の説明を受けました。石敢当は九州南部や沖縄などにある魔除けです。魔物は急に進路を変えることができないため、T字路では敷地に入ってくると云われています。魔物の侵入を防ぐために突き当りに魔除けである石敢当を置きました。現在でも鹿児島では数多く見られます。

 

石敢当から墓地へ向かい尾畔山に登りますが、もちろん登山道はありませんので、最初から険しい山肌を樹木など掴みながら登っていきます。

すると左側に人工的に構築されたような通路?塹壕?が現れました。

f:id:satsumanekonosuke:20260321124505j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260321125745j:image

幅は人が通れるほどで、高さは1mから2mぐらいあり、山頂へ向かって続いています。

f:id:satsumanekonosuke:20260321124815j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321124807j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321124741j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321124747j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321124800j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321124754j:image

全長は約70m~80mほどありました。

f:id:satsumanekonosuke:20260321130231j:image

もぐら先輩が「西南戦争時の塹壕かもしれない」と話されましたが、高橋さんは「このような規模の塹壕を短時間で構築するのは難しいのでは?」と言われました。

もぐら先輩は鹿児島の土壌はシラスなので比較的掘りやすいからという見解です。確かに城山の岩崎谷にある西郷洞窟は当ブログ『西南戦争史跡 番外編』で書いたとおり、西郷さんの側付・深江権太郎が手掘りで洞窟を作ったと証言しています。西郷洞窟は通路を含め奥行二間、間口一間の広さがありました。洞窟の数も7つあり桐野利秋や村田新八などの薩将が入り、西郷洞窟よりも広い洞窟もあったようです。

9月1日に薩軍が城山を占拠しており、西郷さんが岩崎谷の野村宅後に作られた洞窟に入ったのが6日でした。19日には新たに掘られた洞窟(現在の西郷洞窟)に入っています。

これらを考慮すると今回の塹壕も西南戦争時に構築できたかもしれません。しかし、南北朝期にあった原羅営の遺構かもしれないと疑念も残ります。

恒久的城館ではなく臨時城砦の原羅営では、現在周知されている城跡の常識が当てはまらないこともあると考えられます。そうなると原羅営の登城通路だった可能性も否定できません。

 

さらに登って行くと今度は土塁が現れました。

f:id:satsumanekonosuke:20260321140840j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321140858j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321140904j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321140846j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321140852j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260321141820j:image

この土塁は旧城西高校グランド側にあり、グランド造成以前は緩やかな斜面だったので、原羅営で築かれ西南戦争でも使用されたと考えられます。

土塁の横には空堀が掘られていました。

f:id:satsumanekonosuke:20260321142734j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321142741j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260321142900j:image

この空堀も原羅営の遺構で、主郭とされる曲輪を隔てたものです。

空堀の中に入ります。

f:id:satsumanekonosuke:20260321143416j:image

土橋はなく堀幅も広いので木橋を架けることも難しかったかもしれません。そうなれば空堀自体が通路だった可能性があります。

西南戦争でもこの空堀を挟み両軍対峙していたかもしれないと想像しました。

 

空堀から主郭の曲輪があった削平地に登っていきます。

鹿児島市教育委員会の報告書にある見取図では本丸跡と記されていますが、恒久的城館ではないので本丸という概念はなかったと思われます。主郭の曲輪という認識のほうが妥当ではないでしょうか。

削平地は想像よりも広い空間でした。

f:id:satsumanekonosuke:20260321145547j:image

土塁の痕跡も残っています。
f:id:satsumanekonosuke:20260321145540j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321145534j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260321145711j:image

もぐら先輩の話では帯曲輪もあるとご教示してもらいました。曲輪の斜面を削って切岸を構築する際に帯曲輪ができます。山城早期の遺構としては、とても興味深いものでした。

f:id:satsumanekonosuke:20260321150331j:image

 

この主郭と思われる削平地の先端は少し高くなっています。見通しの良い位置と主郭より高いということは物見曲輪だった可能性があります。山城に詳しい堤さんも同意見だったので、益々信憑性が高まりました。

f:id:satsumanekonosuke:20260321151007j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260321152552j:image

 

この場所に雄風亭碑が建てられています。

f:id:satsumanekonosuke:20260321152534j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321152529j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260321153234j:image

尾畔は江戸初期には鷹狩り場であったため、薩摩藩第二代藩主・島津光久が藩主別館「尾畔御仮屋」を造っていました。(磯の別邸を造ったのも光久です。別邸を造るのが好きだったのか……)

風光明媚な尾畔の山に第八代藩主・島津重豪が東屋造りの「雄風亭」を建てています。長年、小松帯刀の屋敷が原良にあるのを不思議に感じていましたが、島津家の別館があったため近くに屋敷を設けたのであれば納得できます。小松帯刀の屋敷は西南戦争時に別働第一旅団の牙営となります。

雄風亭碑の奥に土塁がありました。

f:id:satsumanekonosuke:20260321155722j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260321160104j:image

この土塁は台場として利用されたのではないでしょうか。

『上村行徴日記』から「六月七日曇晴 木 亥

朝六時比ヨリ官賊砲戦、武、砲三門、本千眼寺上へ一門、後迫へ一門位ノ砲声、十二時比ニ至リ止ム、七時比ヨリ見物二出、十時前皈ル、肥田休入来、十二時帰ル、書見、トク吉水追々入来、暮歩行、間々砲声ス、九時休ム、」とあります。

本千眼寺上の一門はここだったかもしれません。

 

土塁を後にして原羅営の曲輪に戻ります。行きは旧城西高校グランド側でしたが、戻りは反対方向を進みました。もぐら先輩が気になる場所があるようで、高橋さんの見解を伺っていました。

その場所の写真

f:id:satsumanekonosuke:20260321163629j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321163624j:image

掘削されたような小さな削平地です。

高橋さんの見解では、兵士が休憩していた場所ではないかとのことでした。確かにそのような場所でしたが、もう一つの使用も考えられます。それは弾薬や食料が置かれた砲廠部だった可能性もあります。記録がないので色々と想像できますが、専門家の方々の見解を聞き、自分の見解を照らし合わせることができるのがとても面白かったです。

f:id:satsumanekonosuke:20260321165247j:image

 

原羅営を後にして尾根を水上坂方面へ進みます。

尾根には山道のようなものがあり、道の横に小さな土塁があると説明を受けました。薩軍の可愛岳突囲経路探索で経験したことに基づくと、山道は木馬路であり、小さな土塁は木馬路の拡張によりできたものだと推測されます。

(木馬路の詳細は「西南戦争史跡53 宮崎県延岡市特別編4」に記載しています)

元々の木馬路の幅は広くなかったでしょうが、時代と共に広がったと思われます。尾根を歩きながら木馬路も確認しました。路幅は場所により様々で、所々寸断されています。木馬路の使用は昭和30年頃までなので風化しているのではないでしょうか。

しかし、水上坂の上(武岡)まで続いていることは確認できました。

f:id:satsumanekonosuke:20260321173932j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321173926j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321173951j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321173945j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321173919j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321173939j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260321174015j:image

 

遺構とは関係ありませんが、この尾根の武岡側には立派な松がありました。

f:id:satsumanekonosuke:20260321174825j:image

この松はここで起こった西南戦争の戦闘を目撃しているかもしれませんね。

そのようなことを考えながら尾根を戻ります。

この尾根に1か所だけ胸壁と思われる遺構がありました。高橋さんが胸壁の手間にある土を調べて、南東側に向けられた状況から官軍が構築したものだと言われました。

f:id:satsumanekonosuke:20260321180256j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260321180410j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321180415j:image

 

胸壁を確認して戻りましたが、帰路を間違ってしまい別の尾根に入ってしまいました。しかし、この間違いが新たな発見となります。規模は小さいですが堀切を見つけることができました。この堀切には土橋もあります。原羅営から離れていますので関係性は不透明ですが、間違いなく中世のものだと考えられます。

f:id:satsumanekonosuke:20260321181623j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260321181819j:image

 

探索も終盤となりましたが、入口の墓地へは別ルートで下って行きました。最後の最後でまたしても塹壕なのか通路なのか不明な場所がありました。

ここも幅は人が通れるぐらいでしたが、深さは最初の塹壕?通路?よりも深かったです。全長は60m~70mぐらいでした。

f:id:satsumanekonosuke:20260321182613j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321182608j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321182618j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321182600j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321182555j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260321183448j:image

 

前日の武岡と同様で中世の城跡の遺構を西南戦争でも利用したことが判明しました。不透明な所もありますが、そこは想像の範囲ではないかと思います。

 

無事探索も終えて墓地の入口で休憩をしました。もぐら先輩が角の家にある門柱の説明をされている時、石垣に弾痕のようなものを見つけました。しかし、こんな場所に弾痕があるはずがないと思い、その場を何事もなく立ち去ります。

もぐら先輩の案内で千眼寺跡に向かっている途中、今回最初に見た石敢当の石垣で高橋さんが弾痕を発見をしました。

f:id:satsumanekonosuke:20260321185132j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321185138j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321185145j:image

小さい弾痕は小銃弾、少し大きい弾痕は砲弾ではと言われてました。

もぐら先輩が後日確認したものによると弾痕は大小合わせて18箇所あるとのことです。

また、高橋さんのブログでは石垣の上段には弾痕がなく、石の表面加工の違いから後年に積み替えられたのではとありました。

f:id:satsumanekonosuke:20260321200354j:image

※上記の写真は高橋信武さんのブログ『西南戦争之記録』「尾畔(おぐろ)山・水上坂(みっかんざか)尾根を歩く」より引用

 

探索の解散後に墓地入口の家で気づいた弾痕を撮影しました。

f:id:satsumanekonosuke:20260321203644j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321203651j:image

 

石敢当のある場所の弾痕は個人的には西南戦争時のものであると思いたいのですが、鶴丸城(鹿児島城)の石垣と同様(西南戦争時と太平洋戦争時の弾痕がある)に先の大戦によるものではという懸念も生じています。なぜなら、絵図や古地図では石敢当を設置するT字路だったのか不明だからです。

 

現在の地図で石敢当の場所(赤い矢印)を表示

f:id:satsumanekonosuke:20260326212121j:image

江戸後期(文政前後)の絵図

f:id:satsumanekonosuke:20260326215328j:image

赤丸の拡大図

f:id:satsumanekonosuke:20260326211427j:image

石敢当はT字路の突き当りに設置されるものですから、絵図の道では赤い矢印の場所に設置されないといけません。

 

上記は絵図なので古地図から確認していきます。

明治35年(1902年)の古地図

f:id:satsumanekonosuke:20260321204208j:image

拡大図

f:id:satsumanekonosuke:20260326211801j:image

この古地図でも絵図と同様の道です。

 

昭和初期の戦前地形圖

f:id:satsumanekonosuke:20260321204253j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260326212904j:image

 

昭和7年(1932年)の古地図

f:id:satsumanekonosuke:20260321204343j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260326211948j:image

戦前地形圖と昭和7年の古地図も上記と同様の道で、同じく石敢当が設置される場所は赤い矢印でないとおかしくなります。そうなれば、現在の場所に西南戦争時、石敢当と石垣があったのか疑問に思います。

 

昭和41年(1966年)の古地図

f:id:satsumanekonosuke:20260321204425j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260326212312j:image

この頃には現在と同じ道になっています。この道であれば今の場所に石敢当が設置されてもおかしくありません。そうなれば、石敢当と石垣は昭和7年以降に造られた可能性があります。しかし、石敢当自体は古いものなので、別の場所から移設されたとも考えられます。

これらを踏まえて今後調べる必要があります。

 

墓地入口の民家の石垣にある弾痕の場所を絵図・古地図でみていきます。

f:id:satsumanekonosuke:20260326213529j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260326213513j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260326213518j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260326213523j:image

こちらの道は絵図・古地図ともに変化がないので、西南戦争時の弾痕の可能性があります。

 

弾痕に関して異論もあるかもしれませんが、絵図・古地図を見るからに疑念を払拭できないことも事実です。

 

最後に千眼寺の名残りがある場所を案内してもらいました。その場所は個人宅の敷地内で、通常では見ることができないと思います。今回はもぐら先輩が事前に連絡してくれたおかげで石製の鬼瓦と井戸を見学させてもらいました。

鬼瓦

f:id:satsumanekonosuke:20260321205357j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321205339j:image

この鬼瓦はとても貴重だと話されていました。
f:id:satsumanekonosuke:20260321205348j:image

井戸

f:id:satsumanekonosuke:20260321205454j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260321205504j:image

井戸の内部
f:id:satsumanekonosuke:20260321205459j:image

 

こちらのお宅のご当主は西郷隆盛暗殺問題での警視廳から派遣された密偵・中原尚雄と関係あるとのことです。中原尚雄がお祖母様の弟だと話されていました。西郷隆盛、西南戦争、中原尚雄と偶然にも繋がったことに驚きました。

昨年5月、盟中会(西郷隆盛研究発表会)の研究発表会において、西郷隆盛暗殺問題に対する新たな説を唱えたので少し後ろめたく感じました。

 

これで3月7日・8日の遺構探索が終了しました。とても有意義な時間を過ごせたことは、もぐら先輩をはじめ高橋さん、岡本さん、作田さん、堀田さん、宮崎さん、山本さん、南さん、堤さんに感謝しています。

 

 

西南戦争史跡72 鹿児島県鹿児島市武岡・原良探索編 ①

3月7日と8日に鹿児島市の武岡・原良に残る西南戦争遺構を探索しました。

今回の遺構探索を主催されたのは西田在住のもぐら先輩(ご本人の意向により本名は伏せています)で、参加されたメンバーは西南戦争を研究していれば誰でも知っている先生や専門家の方々ばかりでした。

 

7日の遺構探索のメンバーを紹介します。

(先生と呼ばないようにと言われていますので、今回の投稿では皆様「さん」を付けています)


「もぐら先輩さん」もしくは「鹿児島の🐸さん」

西田在住で土日を使って武岡・原良の山中に入り、西南戦争遺構を探索しています。今回の主催者であり案内人でもあります。もぐら先輩のおかげで普段行けない場所まで行くことができました。

 

高橋信武さん

西南戦争を研究している人なら誰でも知っている方です。『西南戦争の考古学的研究』など多くの書籍を出版されており、その他西南戦争の書籍にも多々掲載されている有名人です。自分も探索では参考にさせてもらっています。

 

岡本真也さん

田原坂資料館職員。熊本県の西南戦争遺構を探索。県内各地で台場・胸壁を探し出し、数多くの報告書や書籍にも書かれています。もちろん西南戦争の研究している人なら知っている方です。高橋さん同様参考にさせてもらっています。

 

堀田孝博さん

宮崎県埋蔵文化財センターの方で宮崎県内の西南戦争遺構を網羅されています。当ブログ西南戦争史跡63で掲載している薩軍兵士の墓は堀田さんよりご教示していただいたご縁があります。

 

作田徹さん

田原坂資料館職員。田原坂に代々続く家柄で数多くの貴重な資料と遺物、口伝が伝わっています。西南戦争田原坂のエキスパートです。

 

宮崎拓さん

熊本在住で田原坂付近の遺構発掘調査をされて報告しているエキスパートです。

 

山本哲也さん

大分県埋蔵文化財センターの方で高橋さんと一緒に参加されました。

 

南晃さん

各地の西南戦争史跡を巡っておられる方です。当ブログでも盟中会のブログでもお馴染みです。史跡巡りの情報を共有している仲間です。

 

8日の遺構探索メンバー

もぐら先輩さん

高橋信武さん

岡本真也さん

作田徹さん

山本哲也さん

堤大地さん(8日の参加者)

霧島市在住の元自衛官。霧島地区の県文化財保護指導員もされています。鹿児島県内の山城などを歩いて記録されています。YouTubeでは「ふるさと歴史探索よか趣味チャンネル」において城跡を紹介しています。

 

遺構探索地図

f:id:satsumanekonosuke:20260311123401j:image

 

今回の探索場所は元々南北朝時代の城跡がありました。西南戦争では各地で城跡の地形を利用して陣地を構築しています。武岡・原良でも同様に城跡の遺構を利用したと思われます。

まず、この地にどのような城があったのか調べてみました。

 

南北朝時代の城

f:id:satsumanekonosuke:20260312074517j:image

 

①谷峰城

築城時期 南北朝期

存続期間 暦応4年・興国2年(1341)~(1350~

                  1352)

     (年号 暦応=北朝・興国=南朝)

築城者  肝付兼重

居城者  肝付兼重・鮫島彦次郎入道

残存状況 消滅

f:id:satsumanekonosuke:20260315091220j:image

鹿児島県史料【旧記雑録】『地誌備考一』では

「西田村日吉神社の上なる山上なり、暦應四年四

月、島津貞久東福寺城を抜き、敵尾頭の小城をたもつ、貞久また尾頭を抜く、敵走りて當城に拠り、上山城(今の鶴丸城なり)を襲ハむとす、貞久またこれを敗る(東福寺城の条にいつ)、また觀應のころ南方の賊この城に拠りて上山城をおそふと旧記に見へたり、按するに、南方の賊とハ、建久八年薩摩の国圖田帳に阿多の地頭佐女島四郎とあり、このもの東鑑に阿多平權頭忠景勅勘をかうむると云々とある忠景と同族にて、其のち佐女島彦次郎入道蓮道といふもの南朝に属してしばゝ貞久に敵せしこと旧記に見へたり、これらなるへし、」と記されています。

日枝神社後方の山と谷を隔てた尾根から桃ヶ岡までの一帯が城跡と考えられます。西側には桃ヶ岡を経て田上まで空堀が残っていましたが、常盤トンネルを含む道路の造成により消滅してしまいました。遺構としては尾根には狭い削平地や郭跡(桃ヶ岡)、土塁が残っているのみです。

 

②野元営

築城時期 南北朝期

残存期間 南北朝期~文和3年・正平9年

     (年号 文和=北朝・正平=南朝)

築城者  畠山直顯

居城者  畠山直顯

残存状況 部分壊

f:id:satsumanekonosuke:20260315094823j:image

鹿児島中央駅の西側にある武岡の山北部分が野元営跡です。部分的に道路造成のために掘削されて消滅していますが、郭と思われる削平地や土塁、空堀が残っています。

昭和12年出版・鹿児島市教育委員会  著の『鹿児島の史蹟』に野元営が記載されています。「武岡の一部である。正平九年(紀元二〇一四)九月島津氏久公は畠山直顯の軍を野元營に攻めて毎日合戦があった…」

鹿児島県史料での野元営

【旧記雑録】『前編一』

「九月、畠山修理亮直顯、將攻東福寺城、分兵爲二路、一軍野本、一軍原羅、齢岳公出輕卒撃之、連戰數日、…」

【旧記雑録】『地誌備考一』

「山田聖栄自記に曰、氏久御代に(氏久ハ島津忠久より六代)畠山禮部下向、鹿児島野本原羅に陣取り、氏久日日野伏を出し合戦す、…(略)…禮部とハ南朝の大将畠山治部大輔國長(一書に畠山修理亮直顯とす)にて、文和三年九月鹿児島に來り、東福寺城を攻めむとて、薩摩・大隅・日向三ヶ國の南朝の軍をひきひ、軍を二つに分ち、一つハ野本原に軍し、一つハ原羅に軍す、島津氏久寡を以て衆に對し連戦数日、その時の戦場なり、…」

 

③原羅営

築城時期 正平年間(1346~1369)

残存期間 正平年間~応永20年(1413)

築城者  畠山治部大輔国長(直顯)

居城者  畠山治部大輔国長(直顯)

     伊集院頼久

残存状況 不良

f:id:satsumanekonosuke:20260315112403j:image

尾畔山に築かれており、空堀や一部郭が残っています。旧城西高校(その前の名称は照国高校)のグランド造成のために大部分が掘削されて、当時の遺構は消滅したものと思われます。現地では照国高校グランドとありましたので、グランド造成で掘削されたのは照国商業高校から照国高校と名称が変更した1960年以降だと考えられます。(現在、日置市伊集院にある城西高校は1987年まで薬師1丁目にありました)

本丸跡と思われる場所には島津家の別荘地・雄風亭があり、現在は碑が建立されています。

野元営で紹介した鹿児島県史料【旧記雑録】『前編一』でも原羅は記されています。

同史料【旧記雑録】『地誌備考一』では「今原良に作る、即ち前に出たる文和年中畠山国長か陣営なり、また應永二十年十一月、島津家臣伊集院頼久反して清水城を焼き、退ひてこの所に陣す、此とき島津久豊(忠久より八代)大隅国菱刈の乱を鎮むか為に清水城を発し、同郡吉田にいたる、此変を聞き、即ち馳て鹿児島に還る、吉田清正(吉田領主)・蒲生清寛(蒲生領主)等これに従ふ、同月十二日、久豊軍をすゝむ、清正・清寛この他従兵多し、小野・原良両村のあいだに戦ひ、頼久か軍を敗り、敵の大将町田土佐・日置肥前等数十人を斬獲し、頼久を此営にかこむ、頼久進退道なく自刃せむとす、清正・清寛等頻りに一命を請ふ、久豊聽かず、再三にして終に許して所領伊集院に帰る、北事清水城の条にに(衍カ)も出たり、」と南北朝期以外でも合戦が行われていました。

 

これら3つの城跡は従来の居城としての城ではなく、簡易的な陣城としての役割りだったと考えられます。約520年の歳月で城としての役割りはなかったと思われますが、西南戦争では残存する遺構を利用したのではないでしょうか。

 

【武岡・原良での西南戦争経緯】

高橋信武さんのブログ『西南戦争之記録』で詳細に記されていすので、こちらをご覧ください。

   

甲突川右岸の戦い 4月・5月 1

https://satsumareb.hatenadiary.com/entry/2026/02/19/184220

 

甲突川右岸の戦い 6月24日前後

https://satsumareb.hatenadiary.com/entry/2026/02/24/163257

 

甲突川右岸丘陵は9月には官軍が台場を築いています

https://satsumareb.hatenadiary.com/entry/2026/02/26/084338

 

取り留めなく9月の史料を紹介

https://satsumareb.hatenadiary.com/entry/2026/03/03/194159

 

 

それでは南北朝時代の城跡を踏まえながら西南戦争遺構を探索していきます。

3月7日の探索経路

f:id:satsumanekonosuke:20260315123454j:image

13:30

鹿児島市の西田小学校西側の校門前に集合。

専門家の方々ばかりなので少々緊張しました。

名刺交換をさせてもらいましたが、皆さん気さくな方ばかりで緊張もほぐれました。

準備体操を終え出発。西田の筋違橋の説明を受け、日枝神社で略式参拝してから最初の目的地である桃ヶ岡へ向かいます。

f:id:satsumanekonosuke:20260311124502j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260311124458j:image

 

途中に大久保利通夫人・マスさんの生家跡があったので撮影しました。

f:id:satsumanekonosuke:20260311124641j:image

 

常盤トンネルを越えて樟南高校脇の階段を上ると桃ヶ岡に着きます。谷峰城の郭としての面影はなく、樟南高校グランド横の広場のような空間になっていました。唯一、郭だったと思われる遺構として、東側6mほど上に土塁が残っています。土塁は尾根沿いに約70mほど続いていました。

f:id:satsumanekonosuke:20260315135138j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260315135153j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260315135131j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260315135145j:image

 

土塁の南側には桃ヶ岡に繋がる塹壕のような通路もありますが、南北朝期に築かれたのか西南戦争時に築かれたのか、近年に掘られたのかは判別がつきません。

f:id:satsumanekonosuke:20260315135526j:image

 

f:id:satsumanekonosuke:20260315162735j:image

 

桃ヶ岡と土塁の標高差

f:id:satsumanekonosuke:20260315135736j:image

 

桃ヶ岡付近の地形

f:id:satsumanekonosuke:20260315135819j:image

赤丸の段になっている削平地は郭ではなく、開発後に畑として削られたものだと考えられます。

また、谷峰城の空堀も消滅しています。

桃ヶ岡の土塁は西南戦争で利用された可能性は高いと思われます。1902年(明治35年)の地図では武岡の山道が5本記されていました。

f:id:satsumanekonosuke:20260315140512j:image

②の山道は谷峰城の空堀を通路として利用しており、登ってくる敵兵を土塁から射撃できる状況だったと思われます。

f:id:satsumanekonosuke:20260315140842j:image

f:id:satsumanekonosuke:20260315140855j:image

 

続いて武岡墓地まで進み、摩利支天の碑に向かいます。

f:id:satsumanekonosuke:20260315141113j:image

高橋さん曰く「摩利支天は元々この場所ではなかった」とのことです。ではどこに?唐湊方面とも考えられますが調べても出てきません。今後の課題となりました。

 

摩利支天の裏に土塁のようなものがありました。この盛り土がどのような形で築かれたのかは判断できませんが、もしかして戦闘において利用されたかもしれません。

f:id:satsumanekonosuke:20260315143512j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260315143518j:image

 

土塁の西側には狭いですが人口的な平地で簡易な兵舎が建てられた可能性もあります。ただ、記録として残っていないので想像としておきます。

f:id:satsumanekonosuke:20260315143105j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260315143110j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260315143120j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260315143115j:image

 

道を戻り武岡墓地から長島美術館に向かいます。

f:id:satsumanekonosuke:20260315143704j:image

 

もぐら先輩が長島美術館で手続きをしている間に長島美術館の外から城山を望みました。

f:id:satsumanekonosuke:20260315143755j:image

 

この地は明治10年5月から6月に薩軍(振武隊)が守備をしており、9月は熊本鎮台兵が城山包囲のために守備をしています。

 

これより先は長島美術館の私有地であり、鹿児島市の武岡公園整備事業に伴うことで写真の掲載はできません。ご了承ください。また、許可なく立ち入ることはできません。常識ある行動をお願いいたします。

 

長島美術館の私有地には薩軍砲台跡の碑が建立されています。

『鹿児島市史第3巻』「第5部近代関係史料」にある「上村行徴日記」に砲台のことが記されていました。「五月十九日雲 土辰 朝都城ノ山下并瀬戸山等入来、九時前上方台砲声ヲ発ス、私学隊武岡へ砲三門ヲ場ケ間々打合アリ、三時比キサ皈リ来、横山家内并マス同行、鹿土地へ皈ル、四時後肥田入来五時過浜へ歩行、一次二丸ヨリ皈リ来、夜入過入来、暫噺九時比休ム、」

薩軍が武岡に砲3門を備えたのは5月19日とあります。この砲台に置かれたのが四斤山砲なのか十二斤砲なのかはわかりませんが、両砲とも分解して山上まで運べるので何れかが備えられたのでしょう。

(上村行徴は官選での初代鹿児島市長です)

薩軍砲台跡の高低差

f:id:satsumanekonosuke:20260320132902j:image

砲台跡の前面の段々の削平地は後年に畑として作られたと考えられます。

 

砲台より四斤山砲の射程距離

f:id:satsumanekonosuke:20260315150709j:image

 

十二斤砲の射程距離

f:id:satsumanekonosuke:20260315150739j:image

 

両砲とも武岡に向かう官軍に対して有効な射程距離で活用できれば優位でしたでしょうが、弾薬不足で上手く活用できなかったと思われます。

また、砲台の碑付近を発掘調査すれば轍の痕跡があるかもしれないとのことでした。今後、長島美術館と鹿児島市が発掘調査を実施してもらえたらと切に願っています。

宮崎さんがここで黒曜石を見つけます。形状から人工的なものであり、産地・用途など他の方々と話しているのを聞いて皆さんの知識の多さに驚くばかりでした。

 

薩軍砲台跡から野元営に向かいます。

野元営には空堀・土塁・堀切もしくは虎口・曲輪跡の痕跡がありました。

空堀の先端は浸食谷(最深部約9m)へと続いており、南側の防御の要だったようです。

曲輪跡は三段で1番下の曲輪跡にも砲台を置いた可能性があります。しかし、残念ながらその曲輪跡は常盤トンネルと道路の造成にあたり、平面をきれいに整地され、当時の面影はありません。

1番上の主郭と思われる曲輪跡には殉国祠堂の碑がありました。どうやら祠があり祀られていたようです。その曲輪跡には囲うように土塁が残っていました。

f:id:satsumanekonosuke:20260320131813j:image

 

野元営

f:id:satsumanekonosuke:20260315152753j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260315152758j:image

 

野元営の高低差

f:id:satsumanekonosuke:20260320132835j:image

 

野元営を後にして、時間があったので西郷屋敷跡を訪れました。

f:id:satsumanekonosuke:20260315153653j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260315153658j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260315153642j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260315153647j:image

 

これにて1日目の探索も終了し、西田の居酒屋圓笑にて情報交換会にも参加しました。

もぐら先輩と今日探索した場所の話や作田さんと田原坂の話、高橋さんと霧島市方面の遺構の話、岡本さんと熊本の遺構の話など大変興味深い内容で充実した時間を過ごせました。

 

今回の探索により谷峰城や野元営には南北朝期の遺構が残っており、それを西南戦争時に活用したものと感じました。しかし、開発で遺構が消滅しているのも事実ですし、歳月により風化・消滅しているのも事実です。少しでも後世に伝えることができればと考えさせられた1日でした。

 

翌日は原良方面の探索です。内容は「西南戦争史跡73 鹿児島県鹿児島市武岡・原良探索編 ②」に続きます。

 

 

 

 

 

西南戦争史跡71 宮崎県高原町

2025年12月21日

宮崎市の宮崎埋蔵文化財センター別館にて開催された埋文講座『西南戦争の戦場を歩く』に参加しました。

f:id:satsumanekonosuke:20260116133407j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260116133402j:image

 

西諸県郡高原町を中心に隣りの都城市高崎町における、西南戦争の戦闘状況や史跡など多くの話を拝聴しました。

今回、拝聴した話を元に薩南血涙史・西征戦記稿・高原町史・高崎町史を読み解いて、高原町の西南戦争を精査していきます。

 

高原町での西南戦争

小林を占拠した官軍は高原方面に第二旅団、野尻方面に別働第二旅団を進軍させます。

薩軍の本営は都城に置き、高原には堀與八郎を指揮長に雷撃二番・四番、鵬翼一番・三番、振武八番、常山七番が守備していました。

 

7月14日

第二旅団は正面に3中隊、右翼に4中隊、左翼に合併の2中隊、本軍に1中隊で高原へ進軍しました。

堤川(辻堂川)に着くと薩軍は高原古城に柵を構築して守備しています。

薩軍が砲台から砲撃してきたので、官軍も砲撃と銃撃で応対しました。

堤川を渡河できない官軍は中谷大尉・水野大尉率いる2中隊を上流から迂回させて堤川を渡り、高原古城へ攻撃を仕掛けます。

本道では近藤大尉・入江中尉の工兵三分隊が竹筏を建てて25mほどの橋を架け、川を渡りました。

左右翼隊も加わり、三方向からの攻撃に弾薬も不足する薩軍は高原から退いて官軍が占拠しました。

f:id:satsumanekonosuke:20260116141502j:image

 

高原を占拠した官軍は出羽大尉・伊藤大尉・島野中尉・松本中尉率いる4中隊を高原に置き、栗野大尉・松村大尉の2中隊を広原、予備隊として水野大尉の1中隊を広原と細野に配置しました。

残りの隊は小林に戻っています。

f:id:satsumanekonosuke:20260116142849j:image

 

7月15日

第二旅団は花堂村付近から蒲牟田村に中谷大尉・山田大尉の2中隊、蒲牟田村から霞権現を経て、猿渡瀬口まで和智大尉・伊藤大尉・水野大尉・島野中尉・松本中尉5中隊を配置して守線(写真の青線)を張ります。

その援隊として2中隊、予備隊として栗野大尉の1中隊を配置しました。

f:id:satsumanekonosuke:20260116144431j:image

 

【霞権現】

宮崎埋蔵文化財センターの講座で霞権現の正確な場所を特定できないとありました。

それは現在の高原町には霞神社(霞権現)と霞権現高天原神社があり、史料にある霞権現はどちらか判断できないとのことでした。

調べてみると、霞権現高天原神社は昭和59年に建立された神社で、宗教団体が建てたようです。

今は廃神社と化していいます。

西征戦記稿では「霞権現嶽」と書かれています。

「嶽」という字が示すとおり霞権現は山だったことが伺えます。

古地図では霞神社はありますが霞権現高天原神社はありません。

これらを踏まえて、西南戦争での霞権現は現在の霞神社だと断定できます。

f:id:satsumanekonosuke:20260116145905j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260116145834j:image

 

霞神社(霞権現)

中央の山が霞権現嶽(霞神社)

f:id:satsumanekonosuke:20260116150202j:image

霞神社
f:id:satsumanekonosuke:20260116150151j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260116150231j:image

霞神社から高原麓を望む
f:id:satsumanekonosuke:20260116150147j:image

霞神社から後川内を望む
f:id:satsumanekonosuke:20260116150216j:image

頂上
f:id:satsumanekonosuke:20260116150226j:image

西南戦争の遺構が残っていないか探しましたが、何もありませんでした。
f:id:satsumanekonosuke:20260116150206j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260116150211j:image

かなり急斜面なのがわかります。
f:id:satsumanekonosuke:20260116150157j:image

西南戦争で戦闘があったことを知ってか知らずか、売店には西郷さんの写真などありました。

f:id:satsumanekonosuke:20260116150221j:image

 

7月16日

高原方面の指揮長・堀與八郎は高原進撃にあたり振武隊に援軍を要請します。

振武隊の中島健彦・貴島清は援軍の要請を受けました。

 

7月17日

薩軍は9中隊を4つに分け、雷撃四番、鵬翼一番を本道の正面軍とし、雷撃二番・五番、干城四番、鵬翼六番、常山七番を本道の左右翼とし、鵬翼三番を霞権現に向かわします。

その援隊として振武隊が派遣されました。

夜半、植松(志和池と書かれたものもある)を発した薩軍は夜明けに高崎に達します。

官軍は高崎に柵と塁を構築して固い守備をしていました。

薩軍が接近したことに気付いていない官軍は最前線陣地の高崎郷地頭仮屋(高崎小学校)で朝食を摂っています。

幸いにもこの時高崎は霧に包まれており、薩軍は静かに潜行しながら地頭仮屋に近づき、雷撃四番隊と鵬翼一番隊が一発の銃撃を合図に官軍へ奇襲を仕掛けました。

思わぬ奇襲に官軍は驚き、狼狽しながら高原の方へ逃げていき、それを薩軍が追撃します。

谷川付近において官軍が薩軍に対して応戦しますが、勢いに乗った薩軍を止めることができず、高原麓まで後退しました。

霧で視界の悪い状況の霞権現では鵬翼三番隊が官軍に強襲、官軍は逃げるように山を下ります。

山の麓で交代するために霞権現へ向かっていた1中隊と遭遇しますが、薩軍の勢いに押されて鹿児山(籠山)に後退、そのまま高原まで退きました。

高原麓まで迫った薩軍に応戦しますが、孤立した一部の官軍は再び鹿児山(籠山)へ退避します。

f:id:satsumanekonosuke:20260118120346j:image

 

鹿児山(籠山)の官軍は堤川(辻堂川)を渡り、迂回して小林から駆けつけた援軍と合流して再度、高原麓に進行しました。

増援された官軍は薩軍に対して激しい砲撃と銃撃を浴びせます。

これにより薩軍は高原から高崎、都城へ後退してしまいました。

f:id:satsumanekonosuke:20260118115547j:image

 

7月21日

薩軍は再び高原を進撃するため兵を3つに分け、正面・右翼・左翼の三道より進軍します。

官軍は17日の奇襲から大いに警戒し、各守線に堡塁・胸壁を築き、塁の前には柵を備えていました。

午前零時頃、蒲牟田前面の篝火から薩軍の来襲を察知し、各哨線に警告を発します。

この篝火は薩軍左翼だと思われますが、左翼の諸隊は強襲の利なしと察して交戦はありませんでした。

午前2時には鵬翼三番隊が霞権現を強襲しますが、官軍は塁の三面に柵を構築して大砲を備えていました。

砲撃により近づくことが難しい中、3時間にもおよぶ奮戦で霞権現は鵬翼三番隊が占拠、山の麓まで後退する官軍を追撃しますが、麓で官軍が防戦します。

鵬翼三番隊は右翼・正面の隊と同時に進軍することにし、応戦しながら麓に留まります。

本道では霞権現からの銃声を聞き、大斥候隊を高崎に派遣、高崎で進軍中に単独の薩軍と接触しました。

単独と油断しましたが、たちまち三方から数百の薩軍が現れ激しい交戦となります。

薩軍の勢いは激しく交戦しつつ高原に後退してしまいました。

f:id:satsumanekonosuke:20260118181401j:image

午前7時には本道から正面隊が高原に迫ってきます。

官軍は大砲2門を効果的に配置し、銃による十字砲火で激しく迎撃しました。

正面隊はこの攻撃に一時進撃をためらいますが、右翼隊(常山七番・破竹一番・鵬翼一番)が後川内から越ヶ岡(越)を陥落させて野尻街道から高原へ進軍します。

そのため正面隊の勢いも取り戻ますが、官軍も2中隊の援軍が到着すると反撃が開始されました。

右翼隊に野尻口の敗報(別働第二旅団と新納清一郎の隊が戦闘)が伝えられ、それに加えて官軍援軍が側面から攻撃、弾薬も尽きてしまい後川内に退いてしまいます。

正面隊も官軍の勢いと弾薬不足から高崎に退き、霞権現の麓にいた鵬翼三番隊も合流することができずに退却していきました。

官軍は退却する薩軍を追撃しますが、深追いはせずに高原へ戻ります。

これにより高原・高崎における戦闘が終了しました。

f:id:satsumanekonosuke:20260118131847j:image

 

 

薩南血涙史に面白い記載がありますので紹介します。

『著者(加治木常樹)曰く、此日(7月21日)の戦ひ薩將村田新八、新納清一郎、河野主一郎之を指揮せしが如く記せし誤傳の書あり、此時村田、河野は都の城に在り新納は此方面の指揮長にあらずして此日野尻口にて戦へり、近來十年戰史を編纂するもの皆机上の想像に爲り大ひに事實を誤るもの多し故に其一例を辯ずるのみ』

西南戦争を調べる中、確かに違和感を感じる書もあります。

机上で書かれたものが多く、実際の地形など把握していない書や伝聞・想像のみの書などあります。

郷土史においても隊と隊長名の違いも見受けられます。

これらを踏まえて、調べる際には十分精査する必要があると思いますね。

 

 

西南戦争史跡

谷川の墓地に残る弾痕

宮崎県埋蔵文化財センター別館での講座でいただいた旧谷川墓地の墓石配置図を元に作成しました。

f:id:satsumanekonosuke:20260118135733j:image

グレーの墓石が明治10年以前からある墓石で、白の墓石はそれ以降のものです。

赤い矢印が弾痕と銃弾の方向となります。

墓石配置図を手にした時、すぐに北側からの弾痕が多いと思ったのを覚えています。

その答えは墓地の場所を古地図と照らし合わせることで納得できました。

f:id:satsumanekonosuke:20260118140338j:image

弾薬の物量差を墓石の弾痕が示しています。

 

旧谷川墓地入口

f:id:satsumanekonosuke:20260118140931j:image

墓地の全景(藪に覆われています)

f:id:satsumanekonosuke:20260118141041j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260118141035j:image

弾痕が残る墓石

f:id:satsumanekonosuke:20260118141115j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260118141121j:image

 

f:id:satsumanekonosuke:20260118141353j:image

 

 

 

高原城跡

7月14日の戦闘で薩軍が陣地とした場所です。

本丸跡は広大な郭を使用して現在は墓地となっています。

f:id:satsumanekonosuke:20260118181919j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260118181924j:image

 

本丸跡から北に向けて小さな郭と切岸・空堀が残っていました。

薩軍はこの地形も利用して官軍を迎え撃ったと考えられます。

f:id:satsumanekonosuke:20260118182250j:image

 

本丸跡北側の郭跡(切岸のラインを入れた写真も付けています)

f:id:satsumanekonosuke:20260118182718j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260118182723j:image

 

f:id:satsumanekonosuke:20260118182812j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260118182807j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260118182827j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260118182818j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260118182802j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260118182823j:image

 

帯郭のような場所

f:id:satsumanekonosuke:20260118183006j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260118183000j:image

 

空堀

f:id:satsumanekonosuke:20260118183049j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260118183101j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260118183044j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260118183057j:image

 

当時は樹木などなかったと思われますし、空堀も深かったはずです。

官軍を迎え撃つには最良の場所だったでしょうね。

 

f:id:satsumanekonosuke:20260118183520j:image

 

 

 

探索後に以前番外編で紹介した深江権太郎に縁がある豊味うどんの高原店に寄りました。

f:id:satsumanekonosuke:20260118184150j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260118184139j:image
f:id:satsumanekonosuke:20260118184145j:image

 

 

 

※宮崎県埋蔵文化財センター別館での講座において、講師の方が勘違いされたと思われますが、1つだけ訂正があります。

西南戦争が始まると第一旅団・第二旅団は陸路、第三旅団・別働第二旅団が海路で八代へ、第四旅団・別働第一旅団は海路で鹿児島へ進軍したと言われてました。

f:id:satsumanekonosuke:20260118185222j:image

 

実際は第一・第二・第三・第四旅団は陸路から進軍して高瀬・田原坂・山鹿で戦闘をして南下しています。

そこに大山巌率いる別働第一旅団が編制されました。

 

衝背軍として海路で八代や宇土に派遣されたのは別働第二・別働第三・別働第四・別働第五旅団です。

後に大山巌率いる別働第一旅団は解団して、八代から熊本鎮台に進軍している別働第二旅団が別働第一旅団に、別働第三旅団が別働第二旅団に、別働第四旅団が別働第三旅団に改称されて、宇土から進軍した別働第五旅団も解団しました。

 

官軍の動きも複雑なので、わかりにくいと思いますが、上記が正確な旅団の動きとなります。