2025年12月21日
宮崎市の宮崎埋蔵文化財センター別館にて開催された埋文講座『西南戦争の戦場を歩く』に参加しました。


西諸県郡高原町を中心に隣りの都城市高崎町における、西南戦争の戦闘状況や史跡など多くの話を拝聴しました。
今回、拝聴した話を元に薩南血涙史・西征戦記稿・高原町史・高崎町史を読み解いて、高原町の西南戦争を精査していきます。
高原町での西南戦争
小林を占拠した官軍は高原方面に第二旅団、野尻方面に別働第二旅団を進軍させます。
薩軍の本営は都城に置き、高原には堀與八郎を指揮長に雷撃二番・四番、鵬翼一番・三番、振武八番、常山七番が守備していました。
7月14日
第二旅団は正面に3中隊、右翼に4中隊、左翼に合併の2中隊、本軍に1中隊で高原へ進軍しました。
堤川(辻堂川)に着くと薩軍は高原古城に柵を構築して守備しています。
薩軍が砲台から砲撃してきたので、官軍も砲撃と銃撃で応対しました。
堤川を渡河できない官軍は中谷大尉・水野大尉率いる2中隊を上流から迂回させて堤川を渡り、高原古城へ攻撃を仕掛けます。
本道では近藤大尉・入江中尉の工兵三分隊が竹筏を建てて25mほどの橋を架け、川を渡りました。
左右翼隊も加わり、三方向からの攻撃に弾薬も不足する薩軍は高原から退いて官軍が占拠しました。

高原を占拠した官軍は出羽大尉・伊藤大尉・島野中尉・松本中尉率いる4中隊を高原に置き、栗野大尉・松村大尉の2中隊を広原、予備隊として水野大尉の1中隊を広原と細野に配置しました。
残りの隊は小林に戻っています。

7月15日
第二旅団は花堂村付近から蒲牟田村に中谷大尉・山田大尉の2中隊、蒲牟田村から霞権現を経て、猿渡瀬口まで和智大尉・伊藤大尉・水野大尉・島野中尉・松本中尉5中隊を配置して守線(写真の青線)を張ります。
その援隊として2中隊、予備隊として栗野大尉の1中隊を配置しました。

【霞権現】
宮崎埋蔵文化財センターの講座で霞権現の正確な場所を特定できないとありました。
それは現在の高原町には霞神社(霞権現)と霞権現高天原神社があり、史料にある霞権現はどちらか判断できないとのことでした。
調べてみると、霞権現高天原神社は昭和59年に建立された神社で、宗教団体が建てたようです。
今は廃神社と化していいます。
西征戦記稿では「霞権現嶽」と書かれています。
「嶽」という字が示すとおり霞権現は山だったことが伺えます。
古地図では霞神社はありますが霞権現高天原神社はありません。
これらを踏まえて、西南戦争での霞権現は現在の霞神社だと断定できます。


霞神社(霞権現)
中央の山が霞権現嶽(霞神社)

霞神社


霞神社から高原麓を望む

霞神社から後川内を望む

頂上

西南戦争の遺構が残っていないか探しましたが、何もありませんでした。


かなり急斜面なのがわかります。

西南戦争で戦闘があったことを知ってか知らずか、売店には西郷さんの写真などありました。

7月16日
高原方面の指揮長・堀與八郎は高原進撃にあたり振武隊に援軍を要請します。
振武隊の中島健彦・貴島清は援軍の要請を受けました。
7月17日
薩軍は9中隊を4つに分け、雷撃四番、鵬翼一番を本道の正面軍とし、雷撃二番・五番、干城四番、鵬翼六番、常山七番を本道の左右翼とし、鵬翼三番を霞権現に向かわします。
その援隊として振武隊が派遣されました。
夜半、植松(志和池と書かれたものもある)を発した薩軍は夜明けに高崎に達します。
官軍は高崎に柵と塁を構築して固い守備をしていました。
薩軍が接近したことに気付いていない官軍は最前線陣地の高崎郷地頭仮屋(高崎小学校)で朝食を摂っています。
幸いにもこの時高崎は霧に包まれており、薩軍は静かに潜行しながら地頭仮屋に近づき、雷撃四番隊と鵬翼一番隊が一発の銃撃を合図に官軍へ奇襲を仕掛けました。
思わぬ奇襲に官軍は驚き、狼狽しながら高原の方へ逃げていき、それを薩軍が追撃します。
谷川付近において官軍が薩軍に対して応戦しますが、勢いに乗った薩軍を止めることができず、高原麓まで後退しました。
霧で視界の悪い状況の霞権現では鵬翼三番隊が官軍に強襲、官軍は逃げるように山を下ります。
山の麓で交代するために霞権現へ向かっていた1中隊と遭遇しますが、薩軍の勢いに押されて鹿児山(籠山)に後退、そのまま高原まで退きました。
高原麓まで迫った薩軍に応戦しますが、孤立した一部の官軍は再び鹿児山(籠山)へ退避します。

鹿児山(籠山)の官軍は堤川(辻堂川)を渡り、迂回して小林から駆けつけた援軍と合流して再度、高原麓に進行しました。
増援された官軍は薩軍に対して激しい砲撃と銃撃を浴びせます。
これにより薩軍は高原から高崎、都城へ後退してしまいました。

7月21日
薩軍は再び高原を進撃するため兵を3つに分け、正面・右翼・左翼の三道より進軍します。
官軍は17日の奇襲から大いに警戒し、各守線に堡塁・胸壁を築き、塁の前には柵を備えていました。
午前零時頃、蒲牟田前面の篝火から薩軍の来襲を察知し、各哨線に警告を発します。
この篝火は薩軍左翼だと思われますが、左翼の諸隊は強襲の利なしと察して交戦はありませんでした。
午前2時には鵬翼三番隊が霞権現を強襲しますが、官軍は塁の三面に柵を構築して大砲を備えていました。
砲撃により近づくことが難しい中、3時間にもおよぶ奮戦で霞権現は鵬翼三番隊が占拠、山の麓まで後退する官軍を追撃しますが、麓で官軍が防戦します。
鵬翼三番隊は右翼・正面の隊と同時に進軍することにし、応戦しながら麓に留まります。
本道では霞権現からの銃声を聞き、大斥候隊を高崎に派遣、高崎で進軍中に単独の薩軍と接触しました。
単独と油断しましたが、たちまち三方から数百の薩軍が現れ激しい交戦となります。
薩軍の勢いは激しく交戦しつつ高原に後退してしまいました。

午前7時には本道から正面隊が高原に迫ってきます。
官軍は大砲2門を効果的に配置し、銃による十字砲火で激しく迎撃しました。
正面隊はこの攻撃に一時進撃をためらいますが、右翼隊(常山七番・破竹一番・鵬翼一番)が後川内から越ヶ岡(越)を陥落させて野尻街道から高原へ進軍します。
そのため正面隊の勢いも取り戻ますが、官軍も2中隊の援軍が到着すると反撃が開始されました。
右翼隊に野尻口の敗報(別働第二旅団と新納清一郎の隊が戦闘)が伝えられ、それに加えて官軍援軍が側面から攻撃、弾薬も尽きてしまい後川内に退いてしまいます。
正面隊も官軍の勢いと弾薬不足から高崎に退き、霞権現の麓にいた鵬翼三番隊も合流することができずに退却していきました。
官軍は退却する薩軍を追撃しますが、深追いはせずに高原へ戻ります。
これにより高原・高崎における戦闘が終了しました。

薩南血涙史に面白い記載がありますので紹介します。
『著者(加治木常樹)曰く、此日(7月21日)の戦ひ薩將村田新八、新納清一郎、河野主一郎之を指揮せしが如く記せし誤傳の書あり、此時村田、河野は都の城に在り新納は此方面の指揮長にあらずして此日野尻口にて戦へり、近來十年戰史を編纂するもの皆机上の想像に爲り大ひに事實を誤るもの多し故に其一例を辯ずるのみ』
西南戦争を調べる中、確かに違和感を感じる書もあります。
机上で書かれたものが多く、実際の地形など把握していない書や伝聞・想像のみの書などあります。
郷土史においても隊と隊長名の違いも見受けられます。
これらを踏まえて、調べる際には十分精査する必要があると思いますね。
西南戦争史跡
谷川の墓地に残る弾痕
宮崎県埋蔵文化財センター別館での講座でいただいた旧谷川墓地の墓石配置図を元に作成しました。

グレーの墓石が明治10年以前からある墓石で、白の墓石はそれ以降のものです。
赤い矢印が弾痕と銃弾の方向となります。
墓石配置図を手にした時、すぐに北側からの弾痕が多いと思ったのを覚えています。
その答えは墓地の場所を古地図と照らし合わせることで納得できました。

弾薬の物量差を墓石の弾痕が示しています。
旧谷川墓地入口

墓地の全景(藪に覆われています)


弾痕が残る墓石



高原城跡
7月14日の戦闘で薩軍が陣地とした場所です。
本丸跡は広大な郭を使用して現在は墓地となっています。


本丸跡から北に向けて小さな郭と切岸・空堀が残っていました。
薩軍はこの地形も利用して官軍を迎え撃ったと考えられます。

本丸跡北側の郭跡(切岸のラインを入れた写真も付けています)








帯郭のような場所


空堀




当時は樹木などなかったと思われますし、空堀も深かったはずです。
官軍を迎え撃つには最良の場所だったでしょうね。

探索後に以前番外編で紹介した深江権太郎に縁がある豊味うどんの高原店に寄りました。



※宮崎県埋蔵文化財センター別館での講座において、講師の方が勘違いされたと思われますが、1つだけ訂正があります。
西南戦争が始まると第一旅団・第二旅団は陸路、第三旅団・別働第二旅団が海路で八代へ、第四旅団・別働第一旅団は海路で鹿児島へ進軍したと言われてました。

実際は第一・第二・第三・第四旅団は陸路から進軍して高瀬・田原坂・山鹿で戦闘をして南下しています。
そこに大山巌率いる別働第一旅団が編制されました。
衝背軍として海路で八代や宇土に派遣されたのは別働第二・別働第三・別働第四・別働第五旅団です。
後に大山巌率いる別働第一旅団は解団して、八代から熊本鎮台に進軍している別働第二旅団が別働第一旅団に、別働第三旅団が別働第二旅団に、別働第四旅団が別働第三旅団に改称されて、宇土から進軍した別働第五旅団も解団しました。
官軍の動きも複雑なので、わかりにくいと思いますが、上記が正確な旅団の動きとなります。